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私の戦争体験-最も衝撃的な部分


 私も、そろそろ自分の戦争体験を書き留めておかねばなるまい、そう考えてから既にもう何箇月も経ってしまった。姉は、近い中に又、なにかの会合で体験を話すように依頼されているのだという。姉と私では、記憶に些かの違いがある。と言って、なにも私の記憶に間違いがないと言い張るつもりはない。何しろ、もう四十年以上も昔のことである。記憶に多少の違いがあっても何の不思議もない。何はともあれ、私の記憶するところを書き記してみようと思い立った。

 昭和二十年八月一日の昼、B29が沢山のビラを撒いて飛び去った。

 当時、私は、旧制富山中学(現富山高校)の二年生で、防空監視哨の班長であった。班長と言っても、別段さしたる事をするわけではない。警戒警報が出ると、校舎の屋根の上に設けられた監視哨に登る。敵の機影を認めたら敵機来襲と叫ぶ。遥々日本海側まで艦載機がやって来ることもなく、従って機銃掃射を受ける心配もなかったので、至ってのんびりしたものであった。

 戦争末期になると、B29はたった一機で悠々と飛んで来るようになった。迷彩を施すでもなく、きんきらりんと輝きながら飛び来たり、そして飛び去った。ある時は、市街の南方上空で何か爆弾らしき物を落すのが見えた。その物は、次第に高度を減じながら私の頭上を越え、市街の北方岩瀬方面にあった立山重工のあたりに落ちて爆発した。一時期、連合艦隊の戦艦大和などが富山湾に入ったことなどもあって、富山湾への機雷の投下が頻りであり、その中の一発が誤って地上に落ちたのだと噂されたものである。しかし、味方の戦闘機がこれを迎撃する姿などは一度も見たことがなかった。

 当時の人間の奇妙さは、それでも猶、戦争に負けるなどとは全く実感として捉えていなかったことにある。今にして思えば馬鹿々々しき限りだが、当時の人々の心のどこかに、きっと神風が吹いてくれるさと云った何か確信めいた願望が潜んでいたように思われる。戦意昂揚型の教育にどっぷり首まで浸った当時の軍国少年「私」はもとよりその例外ではなく、寧ろその最たるものであった。教育というものが持つ力の恐ろしさが痛感される。

 ところで、八月一日にB29が撒いたビラは両面刷りであった。一面にはB29の編隊飛行の写真が刷られており、裏面には確か北陸地方を中心とした地図が描かれていて、今後爆撃する予定の都市の名が書き込まれていた。そして更に、これらの都市の市民諸氏は速やかに疎開した方がよい旨書き添えられていた。
 これらのビラは、かなり大量にばら撒かれたらしく、私だけでも何枚も拾ったような記憶があるが、憲兵隊が躍起になって集めているとの噂もあって、後難を恐れた祖母が纏めて警察へ届けてしまった。

 ともあれ、その夜の家族の団欒の中で、翌日から祖母と子供達だけでも疎開しようかなどと話し合った暫く後に、空襲警報が報ぜられたのである。

 その夜の雰囲気は、常と違って何か異様であった。両親と祖母それに二人の姉と私の家族六人は、空襲警報のサイレンを聞くと前庭の防空壕に入ろうとした。道路を挟んで家の向い側に庭と土蔵があった。その前庭に防空壕が掘ってある。しかし、そこは既に近所の人達でいっぱいであった。本能的に危機を感じ取った動物達が一箇所に集るように、人々は狭い壕内でひしと身を寄せ合っていた。まさか出てくれと追い立てるわけにもいかない侭に,私達は中庭の防空壕に取って返した。しかし、この中庭の防空壕に入ったことが、結果として、私達の避難のタイミングを遅らせてしまったことは否めない。あたりの様子がよく分らない侭に、私達が防空壕から出た時は、火の手はかなり近くまで迫っていた。

 富山市爆撃は、文字通りの絨毯爆撃であった。市の東方から、軍需工場であった不二越を残して、綺麗に焼き払ったのである。当時の米軍にとってみれば、生産性の悪い日本の軍需工場などは既に眼中にはなく、寧ろ一般市民の恐怖心を煽ることにより戦争終結を早めようと考えたように思われる。不二越は、灰燼と帰した市街地から道路一つを隔てて、殆ど無傷で残されていた。

 ともあれ、私達が防空壕から出た時は、市の東半分の空は既に真っ赤で、火の手が近く迫り、夜空にB29の爆音が不気味に響いていた。私達は当然西へと逃げる。当時の木町(現、本町)にあった我が家の前の道路を西に向えば、海老亭(料亭)の前を通って佐藤組の邸に突き当り、クランク状に曲って富山ホテルの横を抜ければお堀端である。  
 当時、東京女子大に在学中であった姉は、東京空襲が頻りで授業も充分に行われないところから富山へ帰って来ていたのだが、爆撃には慣れっこになっているのか頗る落ち着いていた。五つ違いで、幼い時からこの姉には全く歯が立たなかった私は、さすが大したものだと大いに感心したことを覚えている。なにしろ、私の方は怖さと緊張でがたがたと震えが止まらない態たらくであったから。           
 
 ところで、焼夷弾が落ちて来る時は、まるでどしゃ降りにでも遭った時のようにざぁっという音を立てる。焼夷弾の一本々々は細い六角柱状であるが、これらの数十本(一説には三十六本)が一つのケースに収められて投下され、落下の途中でケースが開いてばら撒かれる。その夜は、比較的低空でそれらのケースが開いたものか、かなり固まって落ちたようである。後日焼け跡を歩いた時、最も甚しい所では、一平方米当り少なくとも一個の信管(焼夷弾の尖端部)がアスファルトの道路に突き刺さっているのが見受けられた。  
 
 私達がこのどしゃ降りのような音を耳にしたのは、丁度お堀端へ出た時である。私は、咄嗟に路上にうつ伏せになり、両手の親指を耳に当て、残りの指で目を覆った。これは、爆風から目と耳を守るためである。しかし、この時点で私は家族と離れ々々になってしまった。    
 焼夷弾落下の地響きが収まるや否や、私は頭を上げた。丁度行く手の道路上に一群れの焼夷弾が突き刺さって、ちょろちょろと青い炎を上げている。この種の焼夷弾は、落下しても直ぐには破裂しない。暫くの余裕がある。私が顔を上げた時、既に何人かの人が、不気味に青く小さな炎を上げる焼夷弾の間を駆け抜けて行くのが見えた。しかも、その中の一人の後ろ姿は、母にそっくりであった。思わず声を上げると、私は反射的にその後を追った。しかし、無我夢中でその人に追い付いて見るとその人は母ではなかったが、結果としてこの勘違いが私を救ったことになる。  

 頭上は、既に満天火の粉であった。私は、行く手の松川に飛び込み、確か帽子を使ってだったと思うが、防空頭巾の上から水をかぶった。当時といえども松川の水はあまり綺麗ではなかったが、もはやそんなことは言ってはおれぬ。なにしろ熱さはいや増しに激しく、びしょ濡れにした筈の綿入りの防空頭巾が暫くの間にからからに乾いて、火の粉を浴びるや燻り出す。従って、頻繁に水をかぶらざるを得なかったが、隣にいる人が蹲ったきり声を掛けても身動き一つしないので、そちらにも水を掛けてやらねばならず、懸命になって水をかぶり且つ掛けてやっている中に夜が明けてしまった。  
 
 夜が明ける程に火勢も次第に弱まり、人々は互いに名を呼び合って、家族や親戚を探し始めた。私も松川縁りの道を家族の名を呼びながら当てもなく歩き廻った。その時の心細さは譬えようもなかったが、しかしそれも左程長い間のことではなく、幸いにも家族を探し求めていた上の姉にばったりと出くわした。
 姉は、焼夷弾が落ちて来た時、傍らのお濠に飛び込んだのだと言う。ともかく、二人になって元気付いた私達は猶も家族を探し続けたが、偶々出会った知合いの人から父が県庁の中に設けられた救護所にいることを耳にした。  
 
 鉄筋コンクリート建てで民家からも離れていたために焼け残った県庁の中は、多勢の人達でごった返していたが、階上の大ホールが臨時の救護所になっていて、その一角に目や口を残して顔中包帯に包まれた父が横たわっていた。
 父は私たちの姿を認めると、しっかりした口調で無事を喜んでくれた。その後、県庁では治療も侭ならないということで父を不二越病院へ移したのだが、それがその日の中だったのか翌日だったのか、はっきりとは覚えていない。唯、駆け付けた親戚の人たちの世話で、父を大八車に乗せて運んだような記憶がある。  
 
 その後の数日間の思い出は、今にして猶、心に暗く重い。その間に、実にいろんなことがあった。    
 父の顔面の火傷は三度という重いものであったが、外面的には次第に治癒の方向に向っていた。しかし、体の内部では、酷い火傷によって生じた毒素や煙に巻かれた際に吸い込んだ有毒ガスが障害を起したのであろう、満足な薬もない侭に八月九日遂に不帰の客となった。亡くなる前日だったか、息苦しそうな父を見兼ねて、涙ながらに医師の所へ投薬を頼みに行ったが、医師は来てくれたものの為す術もなく唯見守るばかりであった。  
 
 父は、姉に向って被災時の状況などをいろいろと話したらしい。あの焼夷弾が落ちて来た時、父たちは道路脇にあった防空壕に逃げ込んだという。そして再び壕から出た時は行く手は既に火の海と化して進むことが出来ず、止むなく家まで引き返して家の脇を流れる小川に入り、父は川の水を皆に掛けるなどして頑張ったが、家族三人が次々に倒れるに及んで、今はこれまでと小川伝いに猛火を冒して松川まで下ったところを救われたらしい。  
 尤も、これらの話は後日になって聞かされたもので、姉は出来るだけ私を悲しませまいと伏せていたようである。だから、一日、父の看護を親戚の者に頼んで姉と家の焼け跡を訪れた時も、よもやそこで母の遺骸に見えようとは想像だにしていなかった。  
 姉によれば、小川を埋めていた家の残骸の下に母の遺骸を見つけ、私と二人で運び出したというが、私にはそのような記憶がない。家の焼け跡に立った時、焼ける前は随分広いと思っていた我が家の敷地が意外に狭いなと感じたことを覚えている。その時、姉があそこにお母さんがいるよと言った、と思う。そして言われた方へ歩いて行くと、そこに母が仰向けに横たわっていた。  
 
 母の死に顔は外傷もなく全く綺麗で、今は唯すやすやと眠っているかのように見えた。私が母を呼びながら取りすがろうとした時、母の鼻孔からたらたらと流れ出た血潮の鮮烈な色合いを忘れることが出来ない。それは、私の無事を祝う母の喜びの現れかとも思われた。  
 
 私は、この件を叙するに当って、久々に涙した。人の子の親となって、子を思う親心の深さを実感した。それだけに、私たちの安否を気遣いながら炎の間に倒れていった母の心情を思うと、憐れでならない。滂沱と頬を伝う涙を拭いながら、これを綴る。  

 姉を父の看護に残して、私は、義理の叔母と共に死体収容場を廻った。祖母と下の姉の遺体を見付けるためである。市内にはあちこちに死体収容場が設けられていたが、最も多数の死体が収容されていたのは神通川の川原だったと思う。広い川原の石の上に、何列かに分けて累々と死体が並べられていた。  人の噂では、水を慕って人々が川原へ逃げるのを狙い焼夷弾を沢山落したのだとも、あるいは、川の水が光って夜目にも狙い易かったのだとも、いろいろ聞えた。その真偽はともかく、川縁りで死者が多かったのは事実らしい。伏せていて焼夷弾に直撃された人もかなりあったと聞いた。道路に突き刺さった侭の信管を最も数多く見掛けたのも、この辺りである。     
 
 今にしてよくあんなことが出来たものだと思うが、死臭紛々たる中を何百もの死体を見て歩けたのも、偏に肉親の遺骸を早く見つけたいという気持ちの為せるところであったろう。尤も、その後当分の間は、焼魚の匂いを嗅ぐと胸が悪くなった。  
 収容場に並べられている死体の状況は様々であった。真黒焦げに焼けた死体もかなり多く、中には転んだ侭の姿で黒焦げになっている人もあった。その他の死体は夏場のこととて既に腐乱し始めており、鼻孔や口元では蝿の蛆が出たり入ったりしていた。  
 幾つかの収容場を廻って二日目か三日目に、今度は姉も一緒の時、名前は失念したがさるお寺の境内で、祖母と下の姉の遺骸を見つけることが出来た。判断の決め手となったのは着物である。これには姉と叔母の記憶が役に立った。手を取り合って死んでいたものであろうか、二人の遺骸はきちんと並べて置かれていた。  
 
 荼毘に附するのもトタン板の上であった。薪も十分にはなかったのであろう、焼け方も火葬場の炉のように完全ではなかったように思う。父の場合は、荼毘の炎の中に腸が膨れ跳ね踊るのが見えた。それは、まるで不条理な死に対する父の激しい怒りを具現しているかのように思われた。  

 父は歌人であった。歌集に「仙人掌」がある。血の繋がり故か、父の歌には私の琴線に触れるものが多い。  
  
  吾子がため長生きせなと我が言えば 
           妻もうなづく宵の炬燵に
 
 このささやかな父の望みも、無残に打ち砕かれてしまった。享年四十五歳であった。  

 戦争は悪である。如何に大儀名分を唱え、あるいは、如何に名利名目を並べ立てようとも、市井の一私人にとってみれば、戦争は所詮死臭と悲嘆を齎すだけのものに過ぎぬ。諸人の心に不戦の懐いの篤からんことを祈りつつ、この稿を終る。                   

       {一九八七年秋 藻谷研介}  



《後記》    
 
 一九八八年七月二十八日付朝日新聞夕刊の「八王子はなぜ空襲を受けたのか」の記事の中に、同じ夜空襲を受けた〔富山・長岡・水戸〕についても書かれています。   
 この四市を襲った第十三回空襲(八月一日〜二日)は、戦意喪失を狙った本来の目的の他に、『第二十航空軍司令官カーチス・ルメイ少将栄転への餞別と陸軍航空部隊創立記念日の祝賀を兼ねていた。そこで六百八十六機も出撃し、投弾量も八王子の千六百トンをはじめ、他の中小都市爆撃に比べて、飛躍的に多くなっています。』(原文のまま)というわけです。 その結果,『富山・八王子が市街地の八割以上を焼かれ、…』とも記されています。     
 爆撃を受けた私たちにしてみれば勿論大いに腹立たしい話ですが、でもアメリカだけを恨む気持はありません。
 戦争というものは、幾ら格好を付けてみても所詮はそういうものなのです。何と言われようと、戦争をするのが馬鹿、というわけです。つまりは、戦争を始め兼ねない ような馬鹿な政府(政党)を選ぶな、ということに尽きます。   
 いつの世にも勇しがり屋の国家主義者あるいはそれに類する人間がいて、昨今はそんな人間をもて囃すような風潮も一部に見られますが、これ程危険なことはありません。かのヒットラ−も、その初めは勇しがり屋の国家主義者でした。   
 最小限の軍備を持つべきだとの議論も聞かれますが、これは一見尤もに聞えてその実全く意味のない議論です。なぜなら、仮想敵が軍備を拡張すればこちらもそれに合せて軍備拡張を進めざるを得ず、最小限なるものの限度が次第にエスカレートして、結局落ち着くところは本格的軍備です。   
 かくして軍隊が出来、それが力を得てくると、やがてはクーデターを起すなどして国政に関与しようとする、これは歴史の必然です。他の国を見るまでもなく、日本でも その例に事欠かないことは先刻ご承知のとおりです。そして軍事力を他に誇示しなければ軍隊の存在価値がありませんから、最後は戦争に…。   
 日本は、やはり憲法第九条を守って進むべきです。
          (二○○○年秋 記す)


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