私の戦争体験
―その他の部分

さる小学生たちとの交信メイル

[下記は、さる小学生たちとのやり取りである。 残念ながら、二伸を交した後、返事が来ていない。 私の文章が、今の子供たちには難し過ぎたのかも知れない。しかし、これは私の懐旧録の一部ともなり得るものなので、ここに纏めてみた。 尚、原文では小学生に難しいと思われる漢字にルビを振ったのだが、ここでは取り去ってある。]


{小学生四人からのメイル(抜粋)…2001/10/26}
 (前略)僕たちは、戦争体験者と交流するつもりです。そこで交流の第一歩として、メールをしたいと思います。よろしければメールをお願いします。  


{四人への返信 … 2001/10/26}
  メ−ルを有難う。君たちが戦争のことを知りたいと考えたのは、とても良いことだと思います。
 昔、私は研究所で部下だったある若者を叱りつけたことがあります。彼はとてもまじめで優秀な青年でしたが、話がたまたま戦争のことになり、私が戦争だけはしてはならないと言ったところ、戦争だって経験してみなければ分らないと言ったからです。 何事も経験してみることは良いことですが、だからと言って泥棒や殺人までも経験してみなければ分らないのでは困ります。まして、戦争は泥棒や殺人以上で、それを経験すること自体そのまま地獄なのです。 その時ばかりは、私も机を叩いて馬鹿を言うなと怒鳴りつけたものでした。
 だから、君たちが戦争体験者と交流して少しでも戦争のことを知りたいと考えたことにとても感心しました。 ところで、君たちが私にメ−ルをくれたのは、私のホ−ムペ−ジ http://www.motani.comの「私の戦争体験」を読んだからなのですか? 私のホ−ムペ−ジは未完成で自慢できたものではありませんが、とりあえず戦争体験だけでも早く掲載したいと思ったのです。
 私は山口県の徳山市に30年ばかり住んでいたので、広島の原爆資料館へ足を運ぶ機会が何回かありました。そして、その度に、目を真っ赤に泣き腫らして出て来ました。展示品の中に、原爆犠牲者の中学生のカ−キ色の学生服と戦闘帽があって、私はそれを見るたびに涙が溢れてしまうのです。
 原爆投下時、私は中学二年生でした。広島から遠く離れていても、同じような服を着、同じような帽子をかぶっていました。自分は幸運にも生き残って、美味しいものも食べ、テレビも見、自動車も運転するなど、戦後の恵まれた生活をエンジョイしているけれど、この嘗て同年輩だった原爆犠牲者たちは、辛い戦時下の生活だけで全く好い目を見ることもなく死んで行ったのだと思うと、何か申し訳なくて泣けてしまうのです。
 そして今、アフガンの子供たちです。アッラ−の教えのままに文字どおりの肉弾攻撃でアメリカをやっつけるのだと叫んでいる子供たちの姿は、そのまま、太平洋戦争中天皇陛下のために死ぬんだと思いつめていた自分たち軍国少年の姿に重なります。本当にかわいそうな子供たち。何とか目を覚まさせてやりたいものです。
 ずいぶん長くなってしまいました。今日は、ここで終ります。 今度は、君たちの話も聞かせてください。              

{四人からのメイル … 2001/10/30}
  お返事をありがとうございました。やはり戦争を体験した人の話を聞くととても勉強になります。今アフガンでは、罪のない人々が苦しんでいて、とてもいやな気分になります。
 突然で悪いのですが質問をさせてもらいます。
1.戦争の時一番困ったことは何ですか?
2.戦後の日本の様子はどんな感じでしたか?
3.原爆が落とされた時(広島に)どう思いましたか? 4.原爆ドームと資料館を見て僕たちの住んでいる愛知県も原爆投下の候補に当てられていた事を知ってとてもびっくりしました。研介さんは資料館に行ってみてどう思いましたか?
5.原爆投下後の広島や長崎の様子はどんな様子でしたか?
 これで質問を終わります。変わった質問もあるかも知れませんがよろしくお願いします。お返事待ってます。


{四人へのメイル … 2001/11/13 }
 返事がすっかり遅くなってしまって、ごめんごめん。 旅に出て留守にしていたり、親戚の祝い事があったりで、返事が出せなかった。 君たちの質問に対する答は、添付書面に記してある。
  ところで、私がひとつ気になるのが、君たちの漢字解読力だ。 私は戦前の教育を受けているので、いうなれば漢字人間だ。しかし、戦後もとくに昨今は、漢字をあまり教えないようだから、君たちも個人的に読書好きででもないかぎり漢字が苦手なんだろうと思う。そこで、なるべく漢字を使わないように書いているつもりだが、漢字の少ない文章は何といっても読みづらい上に作りにくく、つい漢字を使ってしまう。 そこで、もし私の文章が漢字が多くて読みにくいようなら、遠慮なく言ってほしい。
  それでは、また。           研介

{添付書面}
 さて、第一の質問に対する答だが、これはなかなか難しい。 君たちだって、いろいろある中で、どれが一番……か?と聞かれると、返事に困るんじゃないかな。  それと、もう一つ大きな問題がある。 私たちは、君たちと違って、最初から天皇制軍部独裁国家の体制下に育ったんだ。だから、その体制がまちがっていても、それしか知らないのだから、それがあたり前だと思って育ったわけだ。終戦後、自由な民主主義の空気に触れて、これが本当の人間社会なんだなと、今までの不自由さに初めて気がついた有様だった。
  つまり、敗戦により私たちの意識がすっかり変ってしまって、それまでは本来一番困っていたはずのことを困ったと感じていなかったことに、初めて気がついたわけなんだ。 それは、戦前の日本には「自由がなかった」ということだ。
  独裁体制下では、言論が抑制され、こまかい規制の下で生活することになる。それも、戦況が厳しくなって敗色が濃くなると、ますますひどくなった。
 私たちは、「小学校」に入学したのだが、いわゆる支那事変が始まると、四年生の時から「国民学校」に名前が変り、次第に緊迫した雰囲気の中で勉強することになった。そして、太平洋戦争が始まり、さらに中学校に入学すると、それがいよいよ甚しくなっていく。
  例えば、映画は年に1〜2回、映画館を借り切って学級全体で見に行く。見せてもらえるのは、「ハワイ・マレ−沖開戦」や「加藤隼戦闘隊」などの戦意高揚映画だ。こっそりと自分たちだけで他の映画を見に行ってバレようものなら、えらいことになる。 もちろん、テレビはない。新聞にラジオと人のうわさだけが情報源だった。
  登校下校の時は、学校から2キロの区間は駆け足で行き帰りしなければならなかった。元気なときは良いが、風邪でも引いていたら困ってしまう。
 ある日、登校時に友人たちとの話に夢中になって走らずに歩いていたのがバレて、職員室の黒板の下に正座させられ、出勤してくる先生たちに一発ずつ殴られる罰を受けた。でも、私たちは優等生だったから、先生方も日頃と違った珍しい連中が正座しているのにビックリ。とくに優しい先生方などは殴るまねだけで、いったいどうしたんだと心配してくださった。
  ひどく殴るのはやはり軍事教官で、その人柄にもよるが、殴ることをまるで商売にしているような特別ひどい陸軍大尉がいた。例えば、農業の授業の作業を終えて疲れた足で帰って来ると、「貴様ら、何をダラダラしとるか!なぜ走らんか!」と怒鳴られて、一列に並ばされて総ビンタである。まったくよく殴る男であった。軍隊ではないから、軍靴の底で殴られるようなことはなかったが、時には拳骨ビンタも食らったものだ。
 学年代表で「蛸壺訓練」の講習に参加したことがある。大人から中学生まで、各代表は皆、手製の木の棒を持って集った。会場の海岸の砂浜にはたくさんの蛸壺が掘ってあって、その中に隠れていてアメリカ軍が上陸してきたら、穴から飛び出してポカリと殴り殺すという訓練だ。木の棒を使うのは、もちろん鉄砲が足りないからだが、どうせ死ぬ連中に鉄砲を持たせるのはもったいないからでもある。
  今の時代なら、小学生の君たちでも、これがいかに馬鹿げた戦法であるか分るだろう? 上陸する前の艦砲射撃でまずほとんどがやられてしまうだろうし、たとえそれに生き残ったとしても、穴から飛び出したとたんに自動小銃の一斉掃射でハイソレマデだ。 でも、あの当時は大人でも皆まじめな顔をして、そんな馬鹿げた訓練をやっていた。初めから戦時色に染めあげられた私たち軍国少年は、もちろんまじめに講習を受けたし、天皇の命のまにまに戦うつもりだったのだ。
  戦前、天皇は絶対だった。現人神といって、人間の格好をした神様ということになっていた。誰かが訓示をする場合も、「……は、『気ヲツケ』おそれ多くも天皇陛下の思し召しである。『休メ』 したがって……、」といったように、天皇の名前を言うときだけ『気ヲツケ』をさせられたものである。 そして、私たち軍国少年は、天皇の命のまにまにがんばっていれば、そのうち必ず神風が吹くと信じていたのだ。
  私が、前便でアフガンの子供たちが可哀そうだと言ったのは、まさにこのことである。だって、「天皇」を「アッラ−の神」に置き換えれば、そのままアフガンの今になる。 誰しも、初めからそれしか教えてもらえなかったら、それが本当で全部だと思ってしまう。だから、いつの場合でも、まちがった教育を受けた子供たちが一番可哀そうな目にあうんだ。これについては、さらに第二の質問の答で話そう。
 
  第二の質問だが、終戦直後の日本の社会はテンヤワンヤだった。 私の住んでいた富山の街は一面の焼け野原で、真夏の暑さに火災の余熱が加わって、それは暑かった覚えがある。それでも、いち早く焼け焦げたトタンで造ったバラックが出来、いわゆる闇市もできて、払い下げの軍服を着た人たちで混雑した。私も当時は、配給になった予科練(海軍航空隊予科練習生だったかな?)の軍服を着ていた。
  私は読書好きだから、本がないのには不自由した。その頃ようやく刊行された雑誌は、印刷した紙を折りたたんだものだった。これを買って帰って、自分で折り目を鋏で切り、重ね合わせると薄っぺらい雑誌になる。今みたいにホッチキスなどはなかったから、おそらく紐で綴じあわせたのだろうと思うが、くわしくは記憶にない。
  混乱の中で一番印象に残っているのは、再開された学校での歴史の授業だった。 戦前の日本の歴史つまり国史の授業は、神話に始まった。そして、天から下ってきた神様の子孫が万世一系の天皇たち、で話は進められた。
  ところが、戦後はそれが一変して、石器時代の話に始まり、縄文・弥生の時代へと話は進んで行った。 これは、私にとって本当に新鮮な驚きだった。もう神様は出て来ない。なるほど、これが本当の歴史なんだと大いに感激したものである。
  以来、私は国史に限らず広く歴史全般に非常に興味を持った。もちろん、日本の古代史についてもいろいろの本を読んだ。その上で言うと、残念ながら今君たちが習っている歴史の本にはまだ幾つものまちがいが書かれているが、いちいちは言うまい。君たちにはまだ早すぎるだろう。いずれ、自分で本を読んで勉強することだ。
  それでも、「新しい歴史を創る会」の歴史教科書なるものについては一言せざるを得ない。この本に書かれている歴史なるものは、《新しい》どころか私たちが戦前に習ったものと同様で、神話から話が始まるのだ。また神様を持ち出して、どうしようというのだろうか?。またもや万世一系などと称した天皇制の復活を望んでいるのだろうか。
 木口小平の話も出ているようだ。私たちも習ったが、木口小平は日清戦争だか日露戦 争だかに従軍したラッパ卒で、敵弾に倒れたが死んでもラッパを口から離さなかったことから、忠君愛国の鑑として喧伝され、教科書にも載った。 戦後、木口小平の話は、彼が即死した後の死後硬直だと説明する人もいて、そのうち忘れ去られてしまったが、それにしても、今さらこんな人まで持ち出して本当にどうしようと言うのだろうか? 独裁制を復活させ、忠君愛国を押しつけようとでも言うのだろうか?
 前にも書いたように、何も知らない子供にこんな話だけを教えると、それが真実だと思い込むようになる。たかが子供だと思って馬鹿にしてはいけない。かの中国の文化大革命は、子供の紅衛兵を利用して行われたのだ。紅衛兵に、一方的な教育を施した上で。
  考えてみると、「新しい歴史を創る会」の人たちは、君たちから見ると大人だが、私たちから見れば戦争を知らない子供たちが大きくなっただけのものだ。 戦争を知らないままに大きくなり、いっぱしの口をきくようになったわけで、君たちのように体験者から戦争の話を聞いて参考にしようと考えるだけの聡明さを持ち合せていなかった人たちである。そんな人たちに利用されてはならない。
 
 第三の質問だが、広島に原爆が落された時、私は焼け野原となった富山市の東端の病院で父の看病をしていた。私のホ−ムペ−ジの戦争体験記を読んでもらえれば分るが、あの時私は5日前の8月1日夜の空襲で祖母・母・次姉の三人を失い、長姉と二人で大火傷をした父に付き添っていた。 人のうわさは早いもので、そんな病院にいても広島に強力な新型爆弾が落されたことはすぐに知れ渡ったが、それがどんな爆弾であるかは誰も知らなかったようだ。
  その時の私は、自分自身の不幸に押しつぶされそうになっていたから、とても新型爆弾どころではなかったというのが偽らざるところだ。 その後、9日に父が死んだので、ますます気ぜわしいままにそれ以上のことは知らずじまいだった。長崎にも落とされたと聞いた記憶はある。
 
 第四の質問への答はすでにある程度前便に書いたので、ここでは第五の質問への答と合せて記そう。 戦争体験記にも書いたように、私の場合は、肉親の遺体を求めて富山市内の死体置き場を次々と探し廻ったので、悲惨な死体は嫌と言うほど目にした。倒れたままの姿で真っ黒焦げになった死体も一つや二つではなかった。また、夏場だったので、腐敗が進んだ死体の臭いも強烈だった。
 だから、原爆資料館で数多くの悲惨な写真を見ても、おそらく君たちが感じるほどの驚きはなかったが、当時同年輩だった中学生の帽子や制服を見るとむしょうに涙がこらえきれなくなる。そのことは、前便に書いた。
 原爆投下後の広島や長崎の様子は直接目にはしていないものの、空襲の一夜が明けた富山市街の惨状に勝るとも劣らぬものとして、十分に想像できる。 あのアフガンの子供たちも、また同じような惨状を目にして呆然としているのだろう。戦争を避ける努力をしない大人たちはとも角、子供たちが可哀そうでたまらない。

 以上、長々と記したが、はたして君たちの質問に対する十分な答になったかどうか分らない。 しかし、とも角いろんな人の話を聞き、自分でも本を読み、その上で判断することだ。教科書の形で、子供たちに一方的に神がかった話を押し付けようとする連中は避けたほうが良い。
  返事が遅れて済まなかった。 また何か聞きたいことがあったら、メ−ルして欲しい。
    

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